2007年4月 9日 (月)

「独立国家・日本」

 日本人は本来、潔く尊い民族である。武士の精神は本来、日本民族の魂である。今、それを失い欠けているのではないか。戦後60年、我々は何をしてきたのであるのか。我々は国際社会で日本という国に誇りを持てるのであるか。幸か不幸か日本は戦後、アメリカの属国なのである。今の憲法も、民主主義も、そして堕落もアメリカが作り上げ、アメリカによって与えられたものなのである。日本民族は世界に群を抜く優秀な民族なのである。しかし、政治はアメリカによって取り上げられたが故、日本民族の優秀性は経済にその道を見出したのである。貧困の底から60年、驚異的な経済発展を遂げ、今や日本は世界で経済大国2位となった。アメリカさえ凌ぐ勢いなのである。今後問われるのは、力強い日本の政治力と日本民族の魂の再生なのである。志をもった真の意味での「独立国家・日本」を作り上げていくべきである。

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2007年4月 2日 (月)

自己との闘争

 人生は全てが終焉に向けた闘争なのである。ただただ終焉に向けた闘争なのである。その間において、人は一時的な目的を持つが、結局人生の意味は自分で見いだせなければならない。生きる意味は自分自身で見出すのである。目標を持つことによって、人は闘争心をかき立てることが出来る。目標を達成することで、人は達成感を持つことが出来る。しかし、一つ目標を達成すると新たな目標を自己に植え付けるのである。人生は挑戦する事に意義がある。万事にいたって、目標を立ててそれに挑戦することが人生の意義である。
 人生とはひたすら挑戦なのである。目に付く災いがあれば、それを埋め尽くすべく、挑戦し、達成させるのである。個々の挑戦・達成を繰り返すことにより、人間は成長するのである。自己を確立するために挑戦・達成を繰り返すのである。究極のところ、自己との闘争なのである。自らに降りかかる不幸に対して、自分の運命に対して、挑戦し、闘争するのである。

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2007年3月30日 (金)

日本は断固とした対応を

 アメリカの北朝鮮への経済制裁が解除の方向へ迎いつつある。予想はしていたものの、これは北朝鮮の思惑通りといった形になってしまった。米朝の歩み寄りによって、日本の孤立化が懸念されている。拉致被害者の家族の心中を思うと胸が詰まる。
 しかし、今こそ日本の外交は正念場を迎かえているのである。日本は拉致問題を犠牲にしてでもアメリカに追随するのか、それとも拉致問題を前面に押し出してアメリカ、北朝鮮に断固とした主張を繰り広げるのか。曖昧な対応はもう北朝鮮には通用しないのである。
 阿部内閣の外交はあくまでも、「拉致問題の進展なくして、日朝正常化はあり得ない」とする。今、それを強く世界に向けて発信してほしい。拉致問題は我々国民が身近に抱える問題であるという認識を国民一人一人が持ってほしい。
 イラン、イラク問題を抱えるアメリカの立場と日本の立場は自ずと異なる。今、我々が出来ることは国民が一丸となって、日本の外交を動かすということではないか。

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「力強い日本」の再生

 これは今の政治家、官僚そして国民に対して告ぐものである。
 昨今の日本の現状はいつにも増して憂うものがある。「外」にも「内」にも解決すべき課題が多い。はたして今の政治家、官僚はどれほどに我々国民に対してその任務を果たしているのであろうか? 日本国家は我々国民の税金の上に成り立っているのである。消費税、住民税、所得税、法人税諸々の税金はすべて我々国民によってまかなわれている。使われ方が問題なのである。政治家、官僚はその事実を今一度、襟を正して認識すべきである。まかり間違ってでも国民不在の政治であってはならない。ただそれは政治家、官僚のみならず、国民が確認せねばならない責任であることも真に認識すべきである。
 「自己犠牲」の精神、今の政治家、官僚そして日本人が失いかけている日本固有の美徳である。一般庶民が不景気の経済事情に苦しむ中、政治家、官僚がその特権を生かして裕福な生活をしていると言うことは本来の日本人の精神に反するものである。まずは政治家、官僚が国民に先駆けてそのことを深く認識すべきである。
 あまりにも分かりにくい政治システムが国民と政治に隔たりを生んでいる。我々国民も勉強する義務があるが、政治家もわかりやすい政治を国民に提示する義務がある。政治は我々国民の生活なのである。税金さえ払えば、後は政治家任せという妄想は今、捨てるべきである。隅々に至るまで我々の税金の使い道を追求すべきなのである。
 政治家はその政治的信念によって政治家たるべきであり、我々国民の意思を代弁するものであるのは常識であり、理念でもあり、義務でもある。政治的信念のない政治家が昨今、余りにも多すぎる。復党問題は今の政治の最も悪しき実態であり、嘆かわしき問題である。戻る方も戻る方であり、受け入れる方もまた受け入れる方なのである。
 官僚に至ってもまたしかりである。官僚のやることは事務的であり、自らの保身を優先する。すべての官僚がそうとは言わないまでも、官僚にはそういう匂いがつきまとう。拉致問題である外務省の官僚の発言を忘れることが出来ない。「10人の拉致被害者の為に日朝国交正常化が妨げられてならない」屈辱的な発言であるが、官僚にとっては常識的な発言かもしれない。官僚は国民を支配するものではなく、本来国民主権なのである。
 政治家と切っても切り離せないのが、「しがらみ」である。「しがらみ」は解決しようとすればするほどに「しがらみ」が浮かび上がってくるものであり、最初から「しがらみ」のない政治をすべきなのである。現状打破する政治家が台頭すべきなのである。つまり、政治は今、革新されるべき時なのであり、一切の「しがらみ」を無くして我々国民一人一人が政治をするべき時なのである。
 「外」にいたっては、隣国とは仲良くせよ、と言いうが、近隣の住民と仲良くするのと、隣国と仲良くするのでは情勢が異なる。隣国とはお互いに主張しあって、その関係を両立させるのが国際社会の常識である。
 日本は、韓国とも中国ともロシアとも、北朝鮮とも決して楽観的な関係ではない。事実、それは不自然なことではない。当然のことと解釈して外交すべきである。お互いに利害関係があるもの、他民族、他国家同士でお互いに歩調を合わせるのは容易なことではない。過去の歴史を再認識するべきである。
 政府は、国益をまず考えるべきである。他国の主張で国益をないがしろにするのは国家として、国民に対する造反行為である。日本は昨今、周辺諸国に侮られているのが現状である。中国には未だ不当な戦争責任を追及されて反論できないまま侮られ、尖閣諸島周辺の領土問題でも中国に主導権を握られている。韓国にも、本来日本の領土である竹島を占有されても覆すこともできず、ロシアに至っては北方領土問題で何度も侮辱的で、一方的な政治的戦略を許している。しかも、すべてが相手の言いなりなのであり、日本政府の「摩擦を生じさせない」という浅はかな志からきているのである。
 日本は強く主張すべきである。アメリカにも、北朝鮮にも。断固とした主張をしないから侮られるのである。今、まさにはっきり主張すべき時期に来ているのである。もうアメリカにも、北朝鮮にも金も支援も必要としない。まず、国益を考えるべきである。日本は独自の力で自立すべきなのである。そういう時期にさしかかってきているのでななかろうか。真の意味での独立国家になるべきなのである。
 日朝関係はアメリカにはなんら関係のないことである。アメリカ政府も日朝関係には興味があるわけがない。確かに日本政府の不甲斐なさを考えれば理解は出来るが、拉致問題をアメリカに委ねようとすることは本末転倒である。拉致する北朝鮮は当然犯罪国家であるが、その拉致を見逃した日本国家に責任があるのである。自国に危害を与える国家の関係者を進入させる隙を与えたのは、紛れもなく日本国家なのである。いや、未だにその点は解決されないままなのである。日本人の「寛容さ」なのか、「危機管理の不足」なのか。外国人への参政権への反対はもちろんのこと、在日特権もすべて廃止すべきである。朝銀関連を通して朝鮮総連への公的資金投入はすでに1兆円を超えている。この膨大な金額は金正日政権への経済的援助にもなっている。これらが国民の税金からまかなわれていることは言うまでもない。
 日朝関係に関しても、脅せば金を出す、北朝鮮は日本をこう位置づけている。それでも懲りずに金を出す。「相手に誠意を示すことで、相手の誠意を引き出す」、これは隣人付き合いの論理であって、この論理は日本民族内でのみ通用する。相手が、異なる民族である場合にはこの論理は全く通用しないばかりか悪用される危険をもはらんでいる。
 力無き正義も、また力無き誠意も無用なのである。私たち国民一人一人が今一度、自覚すべきである。「拉致問題は国家的な犯罪である」と。犯罪国家に経済的支援なぞする必要は何処にもないのである。しかも、我々の血税からである。拉致被害者を帰して欲しいなどと懇願するようでは効果はないのである。軍事力を背景にして経済支援を要求してくる北朝鮮のような国家に対して日本が押し返すには、日本も憲法を早急に改正して、自衛隊を日本軍として位置づけ、核武装をして国防の基礎を築いていくことである。そこで初めて北朝鮮に対しても中国、ロシア、ひいてはアメリカに対しても毅然とした態度で外交できるのだ。
 戦後の自虐的史観が国民の愛国心を削ぎ取り、日本の政治を衰弱させてきた。日本人は「怒る」ことを忘れてしまった。今後、当然問われるのが、憲法改正・軍事の保有。しかし、至って当然の理屈なのである。これは歴史の必然なのである。日本ほどの経済大国が丸腰でいること自体が不自然かつ、国益を損なう危険があるのである。
 日本は本来、独自の文化を持っている、そして世界に群を抜く優秀な民族なのである。日本の武士道は世界をも圧倒させるだけの説得力を持った精神なのである。この精神を持ってして国際社会に日本という国家を明確に位置づけることは充分に可能なのである。今一度、原点に立ち返って正しい歴史認識をし、是は是、非は非として認め、「力強い日本」を再生するべきなのである。

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人類愛

 もし、「人類愛」というものがあったとすれば、これは世界の平和にとって理想の究極である。「人類愛」は国家も越えて、宗教をも超越する。国家に対する愛は、時に「愛国心」という名の下に暴走し、集団的で、戦争をも引き起こすのである。宗教に至ってもまた同じなのである。キリスト教も、仏教も、イスラム教もいずれも「愛」を説く。しかし、宗教の「愛」もまた「愛国心」と同様に限定されたものであり、国家に対する愛よりも更に厄介なものかもしれない。宗教は人を洗脳する、そして押しつけがましくて、時には排他的にもなりうる。また、宗教は政治をも巻き込むのだ。いや、政治が宗教を巻き込むのかもしれない。政治と宗教が一体になったとき、それは絶対主義にもなりうる可能性をはらんでいる。西洋の歴史を見れば、政治と宗教が一体になり、「侵略」にも成りうることがよく分かる。
 人間は常に「差別」というものをし、「愛」とは裏腹なことを行うのである。西洋人は東洋人を卑下しているかもしれない。東洋人の中でも、日本人は朝鮮人を卑下しているかもしれない。社会がある中に置いては、「差別」という「愛」とはほど遠いものが存在するのである。「差別」は人間の中にある潜在的な最も悪しき性質である。幼少時代から人間は「差別」をする習性を持ち合わせているのだ。「人類愛」と「差別」とは最も対極的なものである。「差別」は人間の本来持ち合わせている習性であるが、「人類愛」は積極的に喚起させるものなのである。
 「愛」が世界を救えるとしたら、それは「人類愛」以外の何もでもない。しかし、人は何らかの形で何かに帰属しているのである。それは、人によっては国家でもあり、宗教でもあり、いやもっと身近に言えば、会社でもあり、家族でもある。「私は日本人だけど、キリスト教である」といえば、その人はキリスト教に帰属している、仏教徒であるけれどアメリカ人ならその人はアメリカに帰属している。人は帰属しているものには「愛」をためらわない。しかし、宗教愛、国家愛は集団的でもあり、時には「憎しみ」「争い」さえも生むが、「人類愛」は局部的、個人的なのである。決して「人類愛」は集団的にはならないのだ。いや、集団的にならないところに「人類愛」があるのだ。「人類愛」といえば大袈裟であるが、もっと突き詰めて言えば、ヒューマニズムともいえるのだ。ヒューマニズムはつまりは「良心」とも置き換えられる。「良心」は誰にでも持ち合わせているものなのである。「良心」は哀れみの心を生み、「愛」にもなる。
 人は潜在的に「良いこと」も「悪いこと」もする。善と悪が同居しているのが人間だ。そして人は欲をも持つ。食欲、睡眠欲、性欲、さらには人は誰しもが向上欲を持っている。誰でも貧乏より、金持ちの方が良い、頭も悪いより、いい方がよい、潜在的に向上意欲を持っている、しかし、これが「差別」を生む危険性をはらんでいる。しかし、金持ちは貧乏人を哀れむ「良心」をも持ち合わせていることもある。
 誰でも楽をしたい、苦痛を伴う人生より、楽な人生を送りたい。そして、悪よりも善の人生を送りたい。愛のない人生よりも、愛に満ちた人生を送りたい。出来れば、他人を卑下したくない。「憎しみ」のある人生は荒涼とした砂漠に等しい。でも、人生はなかなか思う様には行かない。人様々であり、「闇」の人生もあり、「陽」の人生もある。
 愛を以て人生を貫き通すことほど、崇高なことはない。しかし、それは勇気のいることでもある。「悪」に対して打ち勝つ志、「苦痛」に対しても性根曲げずに堪え忍ぶ勇気が必要なのだ。「苦痛」のない人生などあり得ない。愛する者に「人生の苦痛」を味合わせるのは心が痛む。「人生の苦痛」は誰しも避けて通れない、では打ちのめされたときどうすればいいか。挫折したときどうすればいいか。真っ直ぐに見つめて、受け入れて、前に進むんだ。
 誰でも「愛」を持っている。いろいろな形態で「愛」は現れてくる。「愛」は自然に内面から湧き出てくるものだ。強制されるものでも、確認するものでもない。本当の「愛」は見返りを求めない。しかし、いろいろな形態の「愛」がある。求めるのは純粋な「愛」である。苦難の「悲しみ」といたわりの「優しさ」が入り交じり、究極のところで自然に発生する「愛」こそが純粋な「愛」であり、この「愛」は不変のものであり、説得力を持つ「力強い愛」なのだ。

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憂国

 なぜ、今、日本人には「愛国心」が欠如しているのか?
 これには様々な要因がある。大東亜戦争の敗戦による痛手、または戦時中、「愛国心」を強制されたその反動と考える見方もある。特に戦後、「愛国心」という言葉自体がタブー視されてきたような感がある。なぜ、素直に祖国を愛せないのか?
 もし、外国に行って日本企業の進出ぶりを見れば、日本という国の優秀性が自ずと分かるのではないか。経済的にこれほど世界に幅広く活躍している国も珍しい。しかも、極東の1億数千万の島国なのである。知れば、知るほど、日本民族の優秀性が分かってくるはずだ。日本人というのは、一つ目標を定めたらそれに向かって一切の妥協も許さず、徹底的にその頂点を極めるという特性がある。日本人はその特性として、万事にいたって完璧主義的なところがあるのだ。それが故に、日本の製品は世界的に見ても、最も高品質なのである。しかも、それは特化したものだけではなく、幅広くやり遂げるているのだ。
 日本は一流の技術力を持った、経済大国なのである。それだけでも我々は日本という国に対して誇りを持てるであろう。ではなぜ「愛国心」というものが欠如しているのであろうか? そもそも「愛国」というものが欠如しているところから「憂国」が始まるのである。なぜ愛せないのか、意識の問題からか、政治的理由があるのか、様々な要因があるはずなのは重々承知である。日本には多くの複雑で入り込んだ問題がある。勿論それはどの国でも同じ事なのである。欠点のない国家なぞ存在するわけがない。
 戦後日本人は、戦時中日本は「侵略主義」「軍国主義」というレッテルを貼られた教育を受けてきた。つまり、日本は悪いことばかりやってきた、という自虐的な教育を余儀なくされてきた。その背景には「日教組」と「社会主義的勢力」が存在していた。また、今に及んでも、中国、韓国では教育の一環として、「日本罪悪論」を組み込んでいる。それが故に、戦争を知らない世代さえも、「反日」「抗日」を叫ぶのである。
 しかし、昨今、今一度歴史を見直そうという向きが国内ででてきてる。本当に日本は侵略国家だったのか、一方的に戦争を起こそうとしてきたのか。勿論、アジア諸国にダメージを与えたことは否めないが、ただただ「国粋主義」「侵略国家」というもとでのみアジア諸国に進出したのであろうか。その事実関係を再認識する必要があるのではないか。戦争というものには必ず、相手国があり、いかなる関係においても相互的なのである。しかし、ナチスドイツは純粋に「国粋主義」の名の下でユダヤ人を迫害し、多くの人間を死に追いやり、ヨーロッパを侵略しようと試みた。ドイツは真の意味で「侵略国家」だった。かつての日本をナチスドイツと同列に扱うのは明らかに幼稚な発想である。
 18世紀から19世紀初頭までは、西洋人によるアジア侵略の歴史がある。イギリスを初めとする当時の西洋人は明らかに侵略国家であった。西洋人はアジア各国に無法に進出して、これを制覇し、植民地化させその統治下においた。その植民地化されたアジア諸国を解放したのは、他ならぬ日本であるということを真に自覚している日本人がどれほどいるであろうか。解放の為の「進出」が「侵略」と置き換えられている、ということはなかろうか。
 「南京大虐殺」「従軍慰安婦」等、日本の悪事ばかりが取り上げられているが、それがどこまで真実であるか、今再認識するべき時期なのではないか。加害者としての日本ばかりが取り沙汰されているが、被害者としての日本を取り上げているところが少ないのは憂いる現実なのである。
 日本は世界で唯一の被爆国なのである。原子爆弾で何十万人を一瞬にして「死」に追いやったのはアメリカなのである。また、戦時中、不当な条約破棄によってロシアは日本に攻め込んで、何十万の人々をシベリアに強制連行させたのである。その犠牲者はほとんどが民間人なのである。なぜ、日本はそれをもっと主張しないのであるか。
 自虐史観が戦後、日本を支配してきた。その結果、多くの日本人は政治に敢えて目を向けず、経済にその道を見出した。戦後、日本は驚異的な経済発展を成し遂げ現在に及んでいるが、その経済が行き詰まった今、国民は政治に再び目を向けだしたのである。なぜ、中国、韓国に不当に「反日」と言われなければならないのか、国民は疑問に思うばかりか、嫌悪感さえ見せている。なぜ、中国と韓国以外のアジア諸国は「反日」と言わないのか。
 今問われるのは日本政府の対応なのである。かつてのような「事なかれ主義」はもう国民の前には通用しないのである。断固とした主張を持った力強い日本政府を期待しているのである。それはもう「愛国」ではなく「憂国」なのである。現状の不甲斐ない政治に対して日本国民は憂いているのである。自己改革の精神をもった勇気のある政治が今、問われているのである。

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