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2007年3月30日 (金)

人類愛

 もし、「人類愛」というものがあったとすれば、これは世界の平和にとって理想の究極である。「人類愛」は国家も越えて、宗教をも超越する。国家に対する愛は、時に「愛国心」という名の下に暴走し、集団的で、戦争をも引き起こすのである。宗教に至ってもまた同じなのである。キリスト教も、仏教も、イスラム教もいずれも「愛」を説く。しかし、宗教の「愛」もまた「愛国心」と同様に限定されたものであり、国家に対する愛よりも更に厄介なものかもしれない。宗教は人を洗脳する、そして押しつけがましくて、時には排他的にもなりうる。また、宗教は政治をも巻き込むのだ。いや、政治が宗教を巻き込むのかもしれない。政治と宗教が一体になったとき、それは絶対主義にもなりうる可能性をはらんでいる。西洋の歴史を見れば、政治と宗教が一体になり、「侵略」にも成りうることがよく分かる。
 人間は常に「差別」というものをし、「愛」とは裏腹なことを行うのである。西洋人は東洋人を卑下しているかもしれない。東洋人の中でも、日本人は朝鮮人を卑下しているかもしれない。社会がある中に置いては、「差別」という「愛」とはほど遠いものが存在するのである。「差別」は人間の中にある潜在的な最も悪しき性質である。幼少時代から人間は「差別」をする習性を持ち合わせているのだ。「人類愛」と「差別」とは最も対極的なものである。「差別」は人間の本来持ち合わせている習性であるが、「人類愛」は積極的に喚起させるものなのである。
 「愛」が世界を救えるとしたら、それは「人類愛」以外の何もでもない。しかし、人は何らかの形で何かに帰属しているのである。それは、人によっては国家でもあり、宗教でもあり、いやもっと身近に言えば、会社でもあり、家族でもある。「私は日本人だけど、キリスト教である」といえば、その人はキリスト教に帰属している、仏教徒であるけれどアメリカ人ならその人はアメリカに帰属している。人は帰属しているものには「愛」をためらわない。しかし、宗教愛、国家愛は集団的でもあり、時には「憎しみ」「争い」さえも生むが、「人類愛」は局部的、個人的なのである。決して「人類愛」は集団的にはならないのだ。いや、集団的にならないところに「人類愛」があるのだ。「人類愛」といえば大袈裟であるが、もっと突き詰めて言えば、ヒューマニズムともいえるのだ。ヒューマニズムはつまりは「良心」とも置き換えられる。「良心」は誰にでも持ち合わせているものなのである。「良心」は哀れみの心を生み、「愛」にもなる。
 人は潜在的に「良いこと」も「悪いこと」もする。善と悪が同居しているのが人間だ。そして人は欲をも持つ。食欲、睡眠欲、性欲、さらには人は誰しもが向上欲を持っている。誰でも貧乏より、金持ちの方が良い、頭も悪いより、いい方がよい、潜在的に向上意欲を持っている、しかし、これが「差別」を生む危険性をはらんでいる。しかし、金持ちは貧乏人を哀れむ「良心」をも持ち合わせていることもある。
 誰でも楽をしたい、苦痛を伴う人生より、楽な人生を送りたい。そして、悪よりも善の人生を送りたい。愛のない人生よりも、愛に満ちた人生を送りたい。出来れば、他人を卑下したくない。「憎しみ」のある人生は荒涼とした砂漠に等しい。でも、人生はなかなか思う様には行かない。人様々であり、「闇」の人生もあり、「陽」の人生もある。
 愛を以て人生を貫き通すことほど、崇高なことはない。しかし、それは勇気のいることでもある。「悪」に対して打ち勝つ志、「苦痛」に対しても性根曲げずに堪え忍ぶ勇気が必要なのだ。「苦痛」のない人生などあり得ない。愛する者に「人生の苦痛」を味合わせるのは心が痛む。「人生の苦痛」は誰しも避けて通れない、では打ちのめされたときどうすればいいか。挫折したときどうすればいいか。真っ直ぐに見つめて、受け入れて、前に進むんだ。
 誰でも「愛」を持っている。いろいろな形態で「愛」は現れてくる。「愛」は自然に内面から湧き出てくるものだ。強制されるものでも、確認するものでもない。本当の「愛」は見返りを求めない。しかし、いろいろな形態の「愛」がある。求めるのは純粋な「愛」である。苦難の「悲しみ」といたわりの「優しさ」が入り交じり、究極のところで自然に発生する「愛」こそが純粋な「愛」であり、この「愛」は不変のものであり、説得力を持つ「力強い愛」なのだ。

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憂国

 なぜ、今、日本人には「愛国心」が欠如しているのか?
 これには様々な要因がある。大東亜戦争の敗戦による痛手、または戦時中、「愛国心」を強制されたその反動と考える見方もある。特に戦後、「愛国心」という言葉自体がタブー視されてきたような感がある。なぜ、素直に祖国を愛せないのか?
 もし、外国に行って日本企業の進出ぶりを見れば、日本という国の優秀性が自ずと分かるのではないか。経済的にこれほど世界に幅広く活躍している国も珍しい。しかも、極東の1億数千万の島国なのである。知れば、知るほど、日本民族の優秀性が分かってくるはずだ。日本人というのは、一つ目標を定めたらそれに向かって一切の妥協も許さず、徹底的にその頂点を極めるという特性がある。日本人はその特性として、万事にいたって完璧主義的なところがあるのだ。それが故に、日本の製品は世界的に見ても、最も高品質なのである。しかも、それは特化したものだけではなく、幅広くやり遂げるているのだ。
 日本は一流の技術力を持った、経済大国なのである。それだけでも我々は日本という国に対して誇りを持てるであろう。ではなぜ「愛国心」というものが欠如しているのであろうか? そもそも「愛国」というものが欠如しているところから「憂国」が始まるのである。なぜ愛せないのか、意識の問題からか、政治的理由があるのか、様々な要因があるはずなのは重々承知である。日本には多くの複雑で入り込んだ問題がある。勿論それはどの国でも同じ事なのである。欠点のない国家なぞ存在するわけがない。
 戦後日本人は、戦時中日本は「侵略主義」「軍国主義」というレッテルを貼られた教育を受けてきた。つまり、日本は悪いことばかりやってきた、という自虐的な教育を余儀なくされてきた。その背景には「日教組」と「社会主義的勢力」が存在していた。また、今に及んでも、中国、韓国では教育の一環として、「日本罪悪論」を組み込んでいる。それが故に、戦争を知らない世代さえも、「反日」「抗日」を叫ぶのである。
 しかし、昨今、今一度歴史を見直そうという向きが国内ででてきてる。本当に日本は侵略国家だったのか、一方的に戦争を起こそうとしてきたのか。勿論、アジア諸国にダメージを与えたことは否めないが、ただただ「国粋主義」「侵略国家」というもとでのみアジア諸国に進出したのであろうか。その事実関係を再認識する必要があるのではないか。戦争というものには必ず、相手国があり、いかなる関係においても相互的なのである。しかし、ナチスドイツは純粋に「国粋主義」の名の下でユダヤ人を迫害し、多くの人間を死に追いやり、ヨーロッパを侵略しようと試みた。ドイツは真の意味で「侵略国家」だった。かつての日本をナチスドイツと同列に扱うのは明らかに幼稚な発想である。
 18世紀から19世紀初頭までは、西洋人によるアジア侵略の歴史がある。イギリスを初めとする当時の西洋人は明らかに侵略国家であった。西洋人はアジア各国に無法に進出して、これを制覇し、植民地化させその統治下においた。その植民地化されたアジア諸国を解放したのは、他ならぬ日本であるということを真に自覚している日本人がどれほどいるであろうか。解放の為の「進出」が「侵略」と置き換えられている、ということはなかろうか。
 「南京大虐殺」「従軍慰安婦」等、日本の悪事ばかりが取り上げられているが、それがどこまで真実であるか、今再認識するべき時期なのではないか。加害者としての日本ばかりが取り沙汰されているが、被害者としての日本を取り上げているところが少ないのは憂いる現実なのである。
 日本は世界で唯一の被爆国なのである。原子爆弾で何十万人を一瞬にして「死」に追いやったのはアメリカなのである。また、戦時中、不当な条約破棄によってロシアは日本に攻め込んで、何十万の人々をシベリアに強制連行させたのである。その犠牲者はほとんどが民間人なのである。なぜ、日本はそれをもっと主張しないのであるか。
 自虐史観が戦後、日本を支配してきた。その結果、多くの日本人は政治に敢えて目を向けず、経済にその道を見出した。戦後、日本は驚異的な経済発展を成し遂げ現在に及んでいるが、その経済が行き詰まった今、国民は政治に再び目を向けだしたのである。なぜ、中国、韓国に不当に「反日」と言われなければならないのか、国民は疑問に思うばかりか、嫌悪感さえ見せている。なぜ、中国と韓国以外のアジア諸国は「反日」と言わないのか。
 今問われるのは日本政府の対応なのである。かつてのような「事なかれ主義」はもう国民の前には通用しないのである。断固とした主張を持った力強い日本政府を期待しているのである。それはもう「愛国」ではなく「憂国」なのである。現状の不甲斐ない政治に対して日本国民は憂いているのである。自己改革の精神をもった勇気のある政治が今、問われているのである。

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